イスラエル・ユダヤ食文化

イェマ - 卵のお菓子のディアスポラ

イェマ - 卵のお菓子のディアスポラ ①

Avilaユダヤの料理やお菓子は、世界各地の料理の伝統を取り入れたものです。祝祭の食事としてトーラーで定義されたものでも、長いディアスポラの中で地域ごとの特色が出るものもあります。なかにはキリスト教徒やムスリムと同じような伝統を持つ料理もありますが、同じ料理やお菓子でも宗教の違いによって異なる意味や歴史を持ったりします。
たとえばスペインにはイェマ・デ・サンタ・テレサYema de Santa Teresaという甘いお菓子があります。イェマyemaとはスペイン語で卵黄のことで、ラテン語で宝石を意味するgemmaという言葉から来たという説があります。このお菓子の名前は、キリスト教の聖人であるアヴィラの聖テレサ(1515~1582)にちなんでおり、同じようなもので、セヴィーリャの聖レアンドロ修道院に伝わるイェマ・デ・サン・レアンドロYema de San Leandroがあります。こちらも古くから有名で、祭日や復活祭の聖週間であるセマナ・サンタ(Semana Santa)に食べられる祝祭のお菓子でした。1929年発行のスペイン料理のガイドブックによれば、このお菓子はこの時代には世界的にも有名で、英国の輸出業者がオーストラリアや南アフリカ、そして日本にまで発送していたそうです。レシピのさまざまなバージョンが広まったようですが、完璧につくれるのは聖レアンドロ修道院の修道女だけだったと言われます[1]。
しかし、この聖人と復活祭にちなむスペインの伝統菓子であるイェマも、ユダヤ人と無関係ではないようです。現在イスラエルでは、スペインのイェマのようなお菓子は見られませんが、イェマはさまざまな地域に広がり、レシピのバリエーションが生まれています。その背景には、キリスト教スペイン帝国の拡大と、それに伴う異文化共存の終焉とディアスポラの歴史があります。


イェマ - 卵のお菓子のディアスポラ ②

yemaイェマ・デ・サンタ・マリアは、プチフールのような一口サイズで、名前を見るとキリスト教徒の伝統的なお菓子のようですが、ユダヤ人にも同じようなお菓子が伝わっています。アシュケナジームに伝わるものはジェマjemaと呼ばれるクリームペースト状のものです。過ぎ越しの祭りのときに種なしパンにつけて食べるそうですが[2]、1492年のセファルディック・ディアスポラ以降、ポルトガル系のセファルディームによって伝えられたものと思われています。アシュケナジームはヴァニラスティックやビーンズを入れますが[3]、ジェマはレモンピールやジュース、ビネガー、さらにアーモンド粉を入れるそうです。ジェマはイタリアのリヴォルノやチュニスのユダヤ・コミュニティーでも見られます[4]。
リヴォルノは、古名をリブルナLibrunaといい、古代ローマから存在した小さな港町でした。1421年にフィレンツェ領となってからはメディチ家の港として、およそ300年、地中海の主要貿易港として発展しました。トスカーナ大公フェルディナンド1世デ・メディチ(1549~1609)は、1571年市壁を築き、300隻停泊できる港を建設し、1606年には自由貿易港として関税を免除しました。そのためギリシャ人やアルメニア人、オランダ人、イギリス人などの他にも、改宗を強いられスペイン・ポルトガルを追放された多数のユダヤ人やモリスコが、その宗教文化とともにこの町へ移住してきました。ジェマも、その食文化の遺産の一つでしょう。
Teresa de Avila一方、異端審問時代のスペインでは、コンベルソの家系が迫害を逃れるために一族を修道院に入れ聖職者とすることがよくありました。アヴィラの聖テレサもユダヤ系で、そのような一人であったそうです[5]。コンベルソの家庭で密かに受け継がれてきたユダヤ暦の祝祭と結びついた伝統やレシピの多くは失われてしまったようですが[6]、修道院にユダヤの菓子の伝統が一部伝えられたと言われます。もっとも、イェマがユダヤ起源のお菓子とは断定できません。確かに、ペサハ期間に酵母が禁じられるため、小麦粉を使わないお菓子はマサパンをはじめとして、この時期ユダヤにとっては定番です。しかし、卵は復活祭のシンボルでもあるため、ヨーロッパ各地には卵にちなんだ復活祭のお菓子がたくさん存在します。イェマ・デ・サン・レアンドロのように、スペインのイェマもそのうちの一つであったのでしょう。いずれにせよ、ユダヤ人もキリスト教徒もこの時期、同じようにこの卵のお菓子を食べていたようです。また、イェマについてはアラブ起源説もありますが、はっきりしません。イェマとジェマのように、地域によってレシピの違いも見られますが、イェマ・デ・サンタ・テレサは基本的に卵黄と砂糖、水でつくられ、ジェマのようにアーモンド粉は使用しません。


イェマ - 卵のお菓子のディアスポラ ③

wineスペインにおけるイェマの誕生と発展には、他にも理由があるようです。赤ワインをつくる際、発酵が終わったワインの澱を取り除く清澄剤として伝統的に卵白が使用されてきました。確認される最古のワインづくりはグルジア周辺で行われましたが、フェニキア人によってB.C.1550~300年の間に、イベリア半島を含めた地中海沿岸地域に伝えられました。地中海のパンとワインの文化はローマの食習慣に受け継がれ、紀元1世紀にはイベリア半島にワイン産業が根付いていました。イスラーム時代には一部でワイン産業の減退が見られましたが、キリスト教国領内も含め、ユダヤ人はぶどう栽培やワインづくりと交易に従事してきました。
伝説では、17世紀初頭にフェリペ3世(1578~1621)の治世に、ワイン商人が清澄に使用した残りの卵黄を修道女に与えることを申し出たと言われます[7]。ナヴァラやアラゴンとの間に位置するリオハや、カスティーリャのブルゴス・バリャドリッド・セゴビア・ソリア間のドゥエロ川沿岸地域であるリベラ・デ・ドゥエロが、特にスペイン・ワインの二大名産地として有名ですが、セゴビアでも修道女がイェマをつくってきたようです[8]。アヴィラも、同じくカスティーリャのワインの産地トーロの近くに位置します。卵黄を使って修道女たちがつくったこのようなお菓子の一つが、イェマ・デ・サンタ・テレサです。カスティーリャの伝統菓子イェマは、この地方のワイン産業の歴史とも深い関係があったかもしれません。
新大陸のスペイン・ポルトガル領では宣教活動が盛んに行われましたが、カトリックの典礼儀式にはワインは欠かせないものであったため、現地でワインづくりも始められました。しかし、本格的なワイン生産は、最も早いと言われるチリでも1818年の独立以降になります。17世紀以降、スペイン帝国の国力が徐々に低下していくなか、ワインは新大陸への重要な輸出品の一つでした。特にシェリーなど南部のワインを中心に、スペイン・ワイン貿易が栄えました。ワインづくりで余った卵黄を修道院へ渡すというフェリペ3世時代の伝説も、こうした時代背景の下に生まれたのでしょう。また、スペイン・ポルトガルの植民地の拡大期はセファルディック・ディアスポラの時代でもあり、多くのユダヤ人が新大陸へと逃れ、リヴォルノにおけるように、イェマも広まって行きました。さらにスペイン人やポルトガル人もこの伝播の担い手となり、ブラジルやフィリピンでも、卵黄と砂糖をつかったお菓子が見られたそうです[9]。
イェマという伝統菓子からその起源を辿ると、このお菓子が拡散していく旅と、スペイン・ポルトガルやユダヤ人の複雑な歴史や宗教、食文化の発展を見ることができます。


[1]Dionisio Perez, Guia del Buen Comer Español, Invitario y Loa de la Cocina Clasica de España y Sus Religiones, Madrid, 1929, p.77
[2]Adam Jackson, Yid. Dish: Sugar & Spice & All Things Nice, or Jemma, in The Jewish Daily Forward, published April 06, 2009
[3]Ibid.
[4]Claudia Roden, The Book of Jewish Food, An Odyssey from Samarkand and Vilna to the Present Day, Penguin Books, 1996, p.496
[5]Claudia Roden, The Food of Spain, HerparCollins Publishers, 2011, pp.32-33
[6]Manuel martínez llopis, La dulcería española; Recetarios histórico y popular, Alianza Editorial, Mdrid, 1999, p.25
[7]Claudia Roden, 2011, p.575
[8]Dionisio Perez, 1929, p.299
[9]Adam Jackson, April 06, 2009


投稿日時:2012/3/26 (月) カテゴリー:Rie Report

パンと卵のシンボル

パンと卵のシンボル - 復活祭と春の農耕祭 ①

復活祭イスラエルの春は、ペサハと復活祭というユダヤ・キリスト教双方の最も重要な祝祭の一つとともに始まります。前にも述べた通り、ペサハは新しい一年の農耕祭と結びついています。農耕サイクルは暦と密接な関わりを持ちます。
キリスト教徒にとって復活祭を祝うことは何より重要なことです。キリストの磔刑と復活がペサハの時期に重なっていたため、復活祭の日付の決定に際し、当初はユダヤ暦[1]に従っていましたが、コンスタンティヌス帝の下、325年5月20日より開かれた第一回ニカエア公会議によって、復活祭は春分の後の最初の満月の後の最初の日曜日[2]と定められました。
しかし、キリストの復活がニサンの月のどの日曜日か、共観福音書とヨハネによる福音書では見解が分かれており、ローマは前者、天文学の中心たるアレクサンドリアをはじめとする東方正教会は後者を採用しました。東方正教会は一部を除きローマ教皇グレゴリウス13世による改暦(グレゴリオ暦)を拒み、現在も復活祭の計算にユリウス暦を使用しているため[3]、東西の教会で復活祭の日付が異なることもあります。
「最後の晩餐」の日付も、共観福音書ではペサハ当日、ヨハネによる福音書ではペサハの前夜となります。聖体礼儀で使用するパンが、西方教会では無酵母、東方正教会では酵母入りと異なるのは、この「最後の晩餐」の日付の違いによるもので、東方正教会は、清書のギリシャ語原文から発酵パンと解釈し、領聖に使用します。


パンと卵のシンボル - 復活祭と春の農耕祭 ②

パンと卵聖体は、「生命のパン」たるキリストを象徴します。ユダヤ教の戒律から離れたキリスト教では、カトリックでもミサの聖体拝領に使うパン以外で、復活祭に酵母が禁じられることはないため、キリスト教文化圏では、さまざまな伝統的なパンやお菓子がつくられました。たとえば、アルザス地方では、キリストを指す犠牲の子羊を模ったアニョー・パスカルというお菓子がありますが、英語圏やドイツ語圏では、多産を象徴するウサギの姿をしたお菓子やパンもよくつくられます。
古代においては、パンとワインは地中海ローマ文化圏特有の食べ物であり、肉とエールを主食とする「野蛮な」北方ゲルマン世界に対して、パンは文明を象徴しました[4]。パンとワインはキリスト教とともにヨーロッパ北方まで浸透していきましたが、英語のイースター(Easter)とドイツ語のオースタン(Ostern)という復活祭の呼び名は、ゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来すると言われています[5]。また、復活祭の前の日曜日を除く40日間である四旬節を英語でレント(Lent)と言いますが、これは「長くなる」を意味するlengthenに由来します。春になると日が長くなるという意味です[6]。パレスチナのペサハがそうであったように、復活祭は、ヨーロッパ各地で土着の信仰に根ざした春の祭りと結びついています。
また、イースター・エッグに代表されるように、卵も復活祭のシンボル[7]です。卵は、その中から生命が生まれるため、キリスト復活のシンボルとされたからであり、また冬が終わり新しい生命が生まれる象徴でもあります[8]。エルサレムのキリスト教徒居住地区を中心とした旧市街では、復活祭の前から、赤に色付けされた卵[9]を中心に据えたパンが姿を現します。このような卵を入れたパンは、イスラエルはもとより、世界各地のギリシャ等正教会地域でよく見られます。

パンと卵のシンボル - 復活祭と春の農耕祭 ③

復活祭の前の四旬節の期間は厳しい節制を行う習慣が、古代末期から中世にかけて成立しました[10]。肉・卵・乳製品が禁じられ、食事は1日1回とされました。この節制が解除される復活祭初日のために、卵や乳製品を使用したパンやお菓子がつくられるようになったと言われます。
スペインのアヴィラやサラマンカでは、オルナソ(hornazo)といって、チョリソやハム、固ゆで卵が入った伝統的なパンやパイがあります。オルナソは、復活祭後の最初の月曜日に食べられたそうですが、サラマンカではこの月曜日を「水の月曜日(Lunes de Agua)」とも言ったそうです。大学の町サラマンカでは、かつて復活祭の前の四旬節には、学生たちは日頃の馬鹿騒ぎを止め、潔斎のために娼婦たちはトルメス川の向こう岸にあるテハレス地区へと追いやられました。復活祭後の最初の月曜日の「水の月曜日(Lunes de Agua)」に、学生たちはまた彼女たちの元に行ったという話から、この名が来たとも言われます。もっとも復活祭後の月曜日は、ふつうは家族連れで野原に出かけ、オルナソを食べたそうです[11]。
現在では、一般人がこのような厳しい節制を課されることはありません。しかし、厳しい節制の後に甘いものを欲しがるのは、キリスト教徒も、ユダヤ教徒、ムスリムも違いはないようです。ペサハ明けのミムナーやラマダンの断食明けにはさまざまなお菓子が食べられます。宗教的禁欲が食文化を発展させる要因となるのは、なかなか興味深いことです。

パンと卵のシンボル - 復活祭と春の農耕祭 ④

イスラエルでもよく見られる伝統的な復活祭のお菓子は、正教会の人々が食べるクリーチです。これはパネトーネに似た円筒形のパンで、頭頂部に砂糖を振りかけたもので、復活祭からペンテコステ[12]までの復活節の期間に食べられるデザート[13]です。イスラエルでは、ロシア系の多い地区の、世俗的なスーパー等で見られます。
ユダヤ教徒にはペサハ期間は酵母が禁じられているため、エルサレムのパン屋やスーパーでは酵母を使った食品は排除されます。そのため、そのようなパンやお菓子が見られるのは、ムスリム地区・キリスト教徒地区になります。もっとも、ユダヤ人のすべてがこの戒律を守っているとは言えません。復活祭の期間は、世界中から正教会の巡礼者や観光客が訪れます。このような観光客に混じってパンを買っていくイスラエル人もいるようですが、売る側もいちいち気にしないとのことです。
ペサハと復活祭、及びその前の期間は、エレツ・イスラエルでも最も神聖な時期であり、また、それぞれの宗教・宗派の持つ食文化が垣間見られる時期でもあります。旧市街のムスリム地区のダマスカス門近くのパン屋では、アラブの薄焼きパンのタブーン[14]と一緒に、祝祭日の象徴であるユダヤのハラー、そしてこの復活祭のパンが売られていたりします。エルサレムは三宗教の聖地であり、かつその帰属を巡る紛争の焦点ですが、宗教・人種間の緊張だけでなく、規則では完全に縛ることのできないある種の緩さ、異なる宗教文化と日常生活の混淆もまた見ることができるのです。


[1]現在のユダヤ暦は、日本の旧暦と同じ太陰太陽暦です。太陰太陽暦は古代バビロニアで完成し、バビロン捕囚の時代にユダヤ暦に取り入れられたと言われます。3月・4月に当たるニサンの月の名もバビロニア暦から来ており、第一月とされます(ニサンの月の15日に、ペサハは始まります)。
[2]コンスタンティヌス帝は321年に、日曜日を最初の日とする新たな一週間を定めた勅令を発布しました。これは,キリストがユダヤ暦の週の第一日に復活したからです。当時はユダヤの安息日をはじめ,ローマの異教徒たちは土曜日を安息と礼拝の日としていましたが、この勅令によりそれまでの習慣を捨て、キリスト復活の日を正確に礼拝の日としたのでする(『暦をつくった人々』 デイヴィット・E・ダンカン著 松浦俊輔訳 1998年 河出書房新社 pp.70-71)。
[3]前掲書 pp.304-305。
[4]宮下規久朗『食べる西洋美術「最後の晩餐」から読む』光文社新書2007年p.21
[5]デイヴィット・E・ダンカン p126.
[6]今橋朗『よくわかるキリスト教の暦』 キリスト教新聞社 2003年 p.45
[7]ペサハのセデルでは、固ゆで卵が新しい生命と信仰の象徴とされます。
[8]その他の説として、マグダラのマリアがローマ皇帝へ赤い卵を送り、キリストが天へ昇ったことを知らせたと言います。
[9]赤は、キリストが十字架上で流した血を想起させるため、死と復活を象徴します(「血は生命である」(レビ記17:11))。しかし、青く色づけされた卵が使われることもあります。
[10]もっとも実際に断食が行われるのは復活祭前の聖金曜日だけで、また一般市民が肉を日常的に食べるようになるのは18世紀以降のこと言われています(『地中海の暦と祭』地中海学会編 刀水社 2002年p.159)。
[11]Dionisio Perez, “Guia del Buen Comer Español”, Madrid, 1929, pp.262-263
[12]聖霊降臨祭、もしくは五旬節のこと。復活祭から50日後に祝われる移動祝祭です。ユダヤの初穂の祭りであるシャヴオートに由来します。
[13]司祭によって成聖されたものは正教の奉神礼に使用されます。復活節に食べられるのは、成聖されていないものです。
[14]タブーンとは中東のパン焼き窯で、薄い中華鍋をひっくり返したような形をしています。この窯で焼いた厚いクレープのようなパンのことも、タブーンと言います。


投稿日時:2011/5/30 (月) カテゴリー:Rie Report

カフェから見るイスラエルとパレスチナ

カフェから見るイスラエルとパレスチナ ①

2009年1月10日、ロンドンのケンジントン・ハイ・ストリートのイスラエル大使館の向かいにあるスターバックスが、ガザ侵攻に対する反イスラエル・デモの襲撃を受け破壊されました。襲撃の理由は、スターバックスのCEOハワード・シュルツ氏がユダヤ系アメリカ人[i]で、スターバックスがイスラエル軍に資金援助を行っているとの噂[ii] によるものでした。しかし実際は、スターバックスはアラブ・イスラーム世界に多数店舗を展開しており、一方で2003年にイスラエルからは全面撤退しています。この撤退にも政治的背景が疑われましたが、最終的にこれらの噂に対しスターバックスは、イスラエル軍の軍事活動に一切資金援助は行っていないこと、イスラエルからの撤退はビジネス上の判断であるというステートメントを出しました[iii] 。
これらはCEOがユダヤ系であったことと、グローバリゼーションの名の下に世界を席巻しているスターバックスゆえに起こった事件ですが、実際にイスラエルに行ってみると、スターバックスの徹底も止むなしと納得できるのではないでしょうか。イスラエルは、個性豊かなカフェで溢れた、カフェ大国なのです。


カフェから見るイスラエルとパレスチナ ②

イスラエルでは、1990年代からザネッティのようなイタリア式カフェ・バールのチェーンが出現しました。イスラエルで最大のコーヒーチェーンのアロマ・エスプレッソ・バールは1994年エルサレムに誕生し、現在ではアメリカやカナダ、ルーマニア、キプロス、ウクライナ、カザフスタンにまで出店しています[iv] 。同じくエルサレムの生れカフェ・ヒレル[v]といったコーヒーチェーンをはじめ、様々な個性的なチェーンやカフェがイスラエルの街並みを賑やかしています。エルサレムは、冬は雨が多くロンドンと似た天候と言われていますが、テルアビブ等地中海沿岸は基本的に温暖で、乾いた空気と太陽の下でのオープン・カフェも多く、イスラエルの街を歩く楽しみの一つと言えるでしょう。
またイタリアン・スタイルのカフェ以外にも、砂糖を入れて水から煮出したトルコ・コーヒーもあり、アラブ人街ではこのタイプのコーヒーをバクラワと一緒に楽しむのが、観光の一つの定番です。しかし、この「トルコ・コーヒー」の呼び方にも、レバント(東地中海地域)の複雑な歴史が垣間見られます。

カフェから見るイスラエルとパレスチナ ③

いわゆる「トルコ・コーヒー(Turkish Coffee)」は、レバント地方を中心に、北アフリカ・バルカン半島を含めた広範な地域で飲まれています。コーヒー自体はエチオピアからイエメンを経由しメッカに入りました。当初は家庭で儀式的に飲まれていましたが、いわゆるコーヒー・ショップが流行しだしたのは、16世紀のオスマン帝国です。ウィーンのコーヒー・ハウスの伝統も、オスマン帝国からもたらされました。1683年のウィーン包囲のときです。オーストリア軍を助けて活躍したアルメニア人の間諜に対する報償として、1685年にコーヒーの販売独占権を与えられたことによると言われます[vi] 。
ギリシャ人やアルメニア人は、このようにオスマン帝国の支配下でこのコーヒー文化を共有してきました。しかし現在、イタリアン・スタイルやインスタントのコーヒーに対するこの煮出したコーヒーを「トルコ・コーヒー」とは呼ばず、各々「ギリシャ・コーヒー(Greek Coffee)」「アルメニア・コーヒー(Armenian Coffee)」等と呼んでいます。この「トルコ・コーヒー」は、数百年の流れの中で、すでに各自の伝統として咀嚼され生活の基盤の中に取り入れられたものとなっており、最早、自民族の名で呼ぶのが当然となっています。
しかしその主張には、隣接する民族・国家の対立の長い歴史、特にオスマン帝国による占領の苦い記憶も含まれています。

エルサレムの旧市街の一角にアルメニア人地区がありますが、その壁にはオスマン帝国末期のアルメニア人虐殺[vii]の地図が貼られてありました[viii]。食文化がその影響下で共有されたものであっても、自分たちが日々口にするものに、征服者の名を冠することはしないのです。

カフェから見るイスラエルとパレスチナ ④

パレスチナもかつてはオスマン帝国の版図の一部であり、その末期には圧制に苦しむ一方で、他地域と同じように食文化とコーヒー文化を共有してきました。現在はオスマン帝国の圧制の記憶は薄れ、「トルコ・コーヒー」ということにさして抵抗を感じるようには見受けられません。一般にアラビア・コーヒーは砂糖を入れずカルダモンをよく入れると言われますが、パレスチナのコーヒーは砂糖を入れたものが多いです。そして占領者はイスラエルへと変わり、また新しいスタイルのカフェが、彼らの生活へ入ってきています。
テルアビブ近郊の美しいアラブ人街ヤッフォは観光地化しており、イスラエル人の新市街と同じように、ファスト・フードとともにイタリアン・バール形式のカフェが多々見られます。東エルサレムのアラブ人街でも、また都市近郊のアラブの町でも、イタリア式エスプレッソ・マシーンを使い、クロワッサンやペストリーを出す個人経営のカフェも増えてきます。一部のムスリムたちがスターバックスという「シオニストのコーヒー」を拒絶しても、文化としてのイタリアン・スタイルのカフェは、イスラエル占領下のパレスチナに根付きつつあります。
しかし多くのアラブ人にとって、コーヒーとは伝統的な煮出しコーヒーを指します。新しいスタイルのカフェがパレスチナ人の生活を彩っても、パレスチナ民族のコーヒー文化の伝統は依然として変わりません。それは、イスラエル・ユダヤの食文化が「中東化」しながらもその核を失わず、新しい伝統を築いているのと相似であると言えるでしょう。


[i]彼は1998年に、イスラエル建国50周年に際し、The Jerusalem Fund of Aish Ha Torahから、米国・イスラエル両国の友好に寄与した政治家やビジネスマン・知識人等に送られる賞The 50th Anniversary Friend of Zion Tribute Awardを受賞しています。

[ii]この噂は反イスラエル的ウェブサイトを中心にネット上で広まりました。シュルツ個人のイスラエル支持の発言が、企業としてのスターバックスのイスラエル支援として歪曲され受け止められたためです。スターバックスの他にマクドナルドやコカコーラ、ネスレ、インテル等のグローバル企業がイスラエル軍支援企業として挙げられ、反イスラエル・ボイコット運動の対象とされました。

[iii]Starbucks Newsroom: Facts about Starbucks in the Middle East より。http://starbucks.tekgroup.com/article_display.cfm?article_id=200

[iv]Aroma Israel―Home Pageより。http://www.aroma.co.il/Default.aspx?alias=www.aroma.co.il/en

[v]1998年にエルサレムのヒレル・ストリートに第1号店がオープン。

[vi]ペーター・ラングハマー「ウィーンのコーヒー・ハウスの由来-コルシツキーから現代までー」『コーヒーという文化:国際コーヒー文化会議からの報告』UCCコーヒー博物館編 柴田書店 1994年 pp.116-119。

[vii]19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国領域内で、断続的にアルメニア人迫害が起こりました。特に大規模なものが、次に第1次世界大戦中の 1915年4月24日に起こった、いわゆる「アルメニア人虐殺」です。ロシア軍と内通したアルメニアの民族運動家に対する対抗措置として、統一と進歩委員会(青年トルコ党)によって、古代からのアルメニア人居住地域であるアナトリア東部からのシリアの砂漠地帯への強制移住が行われ、百万~数百万とも言われる犠牲者を出したとされます。また第1次大戦後の独立闘争とその挫折によってさらに犠牲者を出し、アルメニア人は世界各地へと離散しました。これをアルメニアン・ディアスポラと言います。この「アルメニア人虐殺」は双方の見解の違いもあり、現在もトルコとアルメニア共和国(1991年ソ連より独立)との間で、2009年の国交正常化後も領土問題とも絡み、深刻な問題となっています。

[viii]筆者が確認したのは、2010年4月の時点です。


投稿日時:2011/4/27 (水) カテゴリー:Rie Report

セファルディームのペサハケーキ

セファルディームのペサハケーキ① 禁忌が生んだ美食の伝統

ペサハケーキとは、ペサハ期間にハメツ(酵母)を禁じられたユダヤ人が、小麦粉を使用しないでつくるお菓子やケーキのことで、セファルディーム世界で広く発展しました。ハメツの禁忌により、ペサハ期間はパンやお菓子に小麦粉以外の穀物粉が使われます。代表的な代替粉はジャガイモやトウモロコシですが、これらは新大陸からもたらされた新しい食材です。16-18世紀のヨーロッパの人口増加による食料事情の改善策を支えたジャガイモとトウモロコシは、その伝播に当たって異なる道を辿りました。トウモロコシはスペインを経由し16世紀を通して地中海沿岸地域に、ジャガイモは18世紀を通してフランス、ドイツ、ロシア等のヨーロッパ北・東部へと広まっていきました。つまり、大雑把な分類ではありますが、この二つの植物の伝播状況は、食文化において、アシュケナジーム世界とセファルディーム世界を分ける一つの指針と言えるでしょう。

また、ペサハのお菓子には米粉を使ったものも多く見られます。地中海世界では米粉や米そのものは、日常的にお菓子に使われます。たとえばギリシャのマレビMalebi[i]というお菓子は、米粉とミルクを混ぜたプディングのようなもので、コーンミールを使ったりもしますが、セファルディームの伝えたものだという説があります[ii]。スペインでは、アロス・コン・レチェarroz con leche というお米をミルクと砂糖で甘く煮たドルチェがありますが、お米とミルクというのは、地中海世界では広く受け入れられた組み合わせのようです。20世紀前半のボヘミア・モラヴィアのユダヤ人の家庭のレシピにも、お米とミルク、さまざまな果物類を固めたお菓子が見られ[iii]、アシュケナジーム世界にもセファルディームの食文化が伝わっていることがうかがわれます。しかしその一方で、セファルディームの中でもモロッコ系の人々はペサハ期間にはお米を食べない習慣があるので、食習慣の伝統には、なかなか不思議で複雑なものがあります。1492年にスペインから追放されたユダヤ人は、オランダ以外にも地中海沿岸のイスラーム支配地域へと散っていきましたが、その移住先であるトルコ、ギリシャ、北アフリカには、マレビのように、ラディーノ語[iv]のお菓子の名前が伝えられているそうです。スペインでは、ユダヤ人追放以後もコンベルソ[v]によって、各家庭で密かに、ユダヤ暦の祝祭と結びついたユダヤのお菓子の伝統が守られてきたようですが、残念ながらそれらのユダヤのお菓子のレシピの多くは失われてしまったようです[vi]。

セファルディームのペサハケーキ② 禁忌が生んだ美食の伝統

地中海世界では、木の実や果物は日々の食卓に欠かせない重要な食材で、古代からの長い栽培の歴史があります。現在日本に輸入される多くの木の実類は、アメリカ産や中国産のものが多いのですが、地中海沿岸地域では、古くから様々な木の実が栽培されてきており、現在でも高い生産量を誇るものも少なくありません。たとえば、アーモンドは現在アメリカ・カリフォルニア州が世界最大の生産国・輸出国で、スペインはつづく世界第2位です。カリフォルニアへアーモンドを伝えたのはスペインの宣教師であり、また日本に最初にアーモンドをもたらしたのも、ポルトガルの宣教師たちだと言われています。アーモンドの原産地は中央・西アジアで、遊牧民によりメソポタミアへ、またアレクサンダー大王の遠征によりさらに西のギリシャ・ローマへともたらされ、地中海沿岸に根付いていきました。また、ヘーゼルナッツもトルコ北部黒海沿岸地方が原産地とされ、それが地中海各地へと広まっていきました。現在ヘーゼルナッツの生産量世界第1位はトルコ、イタリアは世界第2位、スペインは世界第4位のヘーゼルナッツの生産・輸出国となっています。地中海沿岸地域はその温暖な気候のために、さまざまな種類の木の実類の生息・栽培に適していたのであり、この豊な木の実の恵みを使した様々なお菓子や料理がつくられてきたのでしょう。

地中海沿岸地域では、たとえばくるみやピスタチオ等のナッツ類をシロップで煮詰めたお菓子の様々なバリエーションが見られます。ヌガーはイタリア・スペインのみならず、イスラーム世界でも日常的なお菓子です。フランス・イタリア・スペイン等の地中海沿岸の南欧諸国とイスラーム世界のお菓子には共通するものが多いのですが、アーモンド粉を使うマカロンもその一つです。モロッコではペサハやプリムにマカロンが食べられており、トルコやイラン、イラクのマカロンにはカルダモンやローズウォーターが入れることもあります[vii]。また、イタリアのアマレッティはマカロンの原型と言われていますが、ローマのゲットーにあるユダヤ人のパスティチェリアでも、代々伝統的なアマレッティやマカロンがつくられているそうです。一方デンマークでは、セファルディック・ディアスポラ以降、古くからセファルディームのコミュニティがありましたが、19世紀以降、ドイツ系中流階層やロシア・ポーランド系貧困層のアシュケナジーム移民コミュニティと共存・融合していきました。ドイツ系の家庭のマツァ粉をつかったアップルパイの上に、マカロンをのせる伝統のお菓子があるそう[viii]で、ナッツ類の粉を使ったお菓子の広がりと人気から、食文化の面でも融合が見られます。

セファルディームのペサハケーキ③ 禁忌が生んだ美食の伝統

ペサハケーキに欠かせないものに、オレンジやレモン等の柑橘類が挙げられます。特にシトロンは、ローマ時代よりユダヤのシンボルとして、コインやシナゴーグ、墓碑、儀式用の銀器等の装飾に使用されてきました[ix]。ヘブライ語ではエトローグといい、ペサハとともに三大巡礼祭の一つに数えられる秋の収穫祭であるスッコートでは、新年初めての豊作祈願の雨乞いの儀式に使われる四大植物の一つ[x]で、風味と香りがあり、学識と善行の持ち主を表すとも言われています[xi]。

イベリア半島に果樹栽培を根付かせたのはムスリムです。961年に書かれた『コルドバ歳時記』[xii]や、11世紀後半-12世紀前半のセヴィーリャの農学者アブー・ル・ジャイルによる農業書[xiii]等の中には、レモン、シトロン、イチヂク、ナツメヤシ、ピスタチオ、バナナ等、豊かな果物の名前と、季節による農耕と食生活のサイクルが書かれています。ユダヤ人は中世初期からシチリアで、そして12世紀にはノルマン・シチリア王国のルッジェーロ2世(1095-1154年)の命によってコルフ島でも柑橘類の栽培を始めました。これらのスペイン・イタリアの柑橘類には地中海の輸出品の一つであり、ユダヤ人によってロンドンや後にはアムステルダムにまで運ばれたのです[xiv]。

これらの柑橘類からはジャムやシロップがつくられました。アシュケナジーム世界でもヘーゼルナッツやくるみ等の木の実を使ったペサハケーキはありますが、柑橘類と組み合わる等、バラエティに富んだレシピは、これらの木の実や果樹の栽培の歴史とともにあります。エトローグのように神への供物にするため、農耕や果樹栽培はユダヤ人にとっては律法による義務であり、古代ユダヤ・コミュニティの分布と果樹栽培地の分布の一致に関する研究もあります[xv]。北アフリカ地域で生まれたペサハ明けを祝う祭りであるミムナーで、野菜や果物のさまざまな種類のコンフィチュールがつくられるのは、このような農耕サイクルに根ざした食習慣から来るものです。前述の『コルドバ歳時記』は、東方イスラーム世界で書かれたアンワーの書[xvi]と異なり、エジプトのコプト暦の影響が認められており[xvii]、農耕サイクルと結びついた中世からの食の伝統が、今も地中海沿岸地域に伝えられていることが分かります。

セファルディームのペサハケーキ④ 禁忌が生んだ美食の伝統

これらの木の実に加え、今やお菓子づくりに欠かせないのがカカオです。カカオは中南米原産で、コロンブスによってスペインにもたらされたと言われていますが、カカオは、最初はその高い栄養価から滋養強壮薬の一種としてスペイン宮廷や修道院に定着しました。その後フェリペ3世(1578-1621年)の娘アナが仏王ルイ13世(1601-1643年)に嫁いだときに、フランスの宮廷へと広まったとされます[xviii]。しかし、カカオはそれだけではお菓子にはなりません。砂糖が必要です。ポルトガルはブラジルにサトウキビを移植しプランテーションを開始、1530年代には砂糖産業が本格化しました。1550年代以降になるとヨーロッパ市場にブラジルの砂糖が進出してきますが[xix]、この新大陸との砂糖貿易で活躍したのはオランダへ逃れたユダヤ人たちでした。1620年代にはアムステルダムの砂糖精練所の数は20を超え、イングランド、フランス、バルト諸国に輸出されていましたが、このブラジルの砂糖の二分の一以上をユダヤ商人が握っていたと言われます[xx]。

その後1828年に、オランダのバンホーテンによりカカオマスから油脂を除去してココア粉を生成する方法が生み出されココアは一般大衆の飲み物となりました。この発明はその後のカカオ産業の発展の礎となり、チョコレートの四大革命[xxi]の最初の一つとされています。ココア粉やチョコレートはさまざまなお菓子に使用され、もちろんペサハケーキにも利用されるようになりました。それだけでなく、最近はマツァにチョコレートをコーティングしたチョコレート・マツァが市販され人気を博しているのです。チョコレートやココア粉は、今やペサハの食卓に欠かせないものとなっています。

セファルディームのペサハケーキ⑤ 禁忌が生んだ美食の伝統

もちろん、これらのお菓子のすべてがペサハケーキではありませんし、様々な木の実や果物、穀物粉を使ったお菓子の発展をセファルディームだけに帰すことはできません。ユダヤ人たちは、その土地で育まれた食材をカシュルートに則り調理してきましたが、レシピの増加は使用できる食材の増加や生活水準の向上に伴うものです。樹木や穀物の生育は風土と環境に左右されるため、食材の数と生産量の増加に農業技術の発展は欠かせません。また、産業革命を経た保存方法と調味料の開発と発展により、より多くの食材を使用することができるようになったことも重要です。ペサハではもちろんハメツは禁じられていますが、ベーキングパウダー[xxii]は炭酸ガスを発生させる重曹を基剤とした膨張剤で酵母(イースト菌)ではないため、ペサハでも使用することができます。このため、酵母が使用できなくても、ケーキを膨らませることができるようになったのです。

ペサハにハメツが禁じられるのは「出エジプト記」の記述に基づきますが、その禁忌に抵触しない限りにおいて許される範囲で食を楽しもうという発想は、祖先の苦難を忘れないためという本来の意義とは全く逆のものです。ユダヤ律法とは、領土と国家機構に裏付けられない不安定なディアスポラの共同体にとっては、ユダヤの宗教的・民族的アイデンティティの拠り所でありました。しかし、その律法の禁忌に縛られた状態でも、限られた範囲で、少しでも祝祭という日常生活から離れた「ハレの日の食卓」を豊かにしようという気持ちは人間として当然であり、自然の恵みと農耕における努力、そして人々の創意工夫の結晶であるペサハケーキは、地中海世界の人間の生活の歴史の一端です。これらのレシピはまた、母から娘へと受け継がれ、離散を重ねる家族のルーツを伝える証しでもあったのです。


[i] ローズウォーターやチョコレート等のバリエーションがあるようです。

[ii] Manuel martínez llopis, La dulcería española; Recetarios histórico y popular, Alianza Editorial, Mdrid, 1999, pp. 24-25.

[iii] In Memory’s Kitchen: A Legacy from the Women of Terezín, Ed. Cara de Silva, Trans. By Bianca Steiner Brown, Rowman& Littlefield Publishers, Inc., 2006, p.46

[iv] セファルディームの言語。ヘブライ語表記で文法はスペイン語に近いが、ポルトガル語やフランス語、トルコ語等、セファルディームの移住先の単語も多く入っています。

[v] キリスト教へ改宗したユダヤ人。元からのキリスト教徒と区別して新キリスト教徒とも言われます。

[vi] Manuel martínez llopis, p.25

[vii] Claudia Roden, The Book of Jewish Food: An Odyssey from Samarkand and Vilna to the Present Day, Penguin Books, 1996, p.522

[viii] Ibid. p. 161

[ix] Ibid. p. 514

[x] スッコートはユダヤ暦の新年に当たるロシュ・ハシャナーと同じティシュリの月(西暦の9-10月に当たる)に行われます。他の三つの植物は、シュロ、柳、ギンバイカです。

[xi] Michael Strassfeld, The Jewish Holidays, Harper Colins Publishes, 2001, p.131

[xii] 前嶋信次『世界の生活の歴史7 イスラムの蔭に』河出書房新社 1991年 pp.265-314。『コルドバ歳時記』は、エルビラの司教レセムンド(アラビア名ラビー・ビン・ザイド・アル・ウスクフ)の著作に、アリーブ・ブン・サアドというムスリムのアンワーの書をつき合わせ綜合したものと言われています。

[xiii] Abū L’Jayr, Kitāb al-Filāha: Tratado de Agricultura, Introducción, edición, traducción e índices por Julia Maria Carabaza Bravo, Agencia Española de Cooperación Internacional, 1991

[xiv] Roden, p.514.

[xv] Ibid. p.514。Erich Isaac, The Influence of Religion in the Spread of Citrus Fruit (1959).

[xvi] 単数形はナウ。後世に黄道28宿と結び付けられましたが、元来はアラビア固有の天文体系による暦法と言われます(前嶋 pp.267-268)。

[xvii] 前嶋 上掲書 p.274

[xviii] 『チョコレートの本』ティータイム・ブックス編集部編 1998年 p.31

[xix] 渡会好一『ヨーロッパの覇権とユダヤ人』法政大学出版局 2010年 p.165

[xx] 渡会 上掲書 pp.260-261

[xxi] その他の4大革命は、チョコレートの成形方法(食べるチョコレート)の発明(1847年)、コンデンスミルクを入れて甘くしたミルクチョコレートの発明(1876年)、チョコレートの粒子を細かく滑らかにするレファイナーとコンチェという機械の発明(19世紀末)です。

[xxii] 1856年にドイツの化学者エーベン・ノートン・ホースフォートにより研究が始められました。1893年にドイツ人薬剤師ルドルフ・エトカーによってレシピが売り出され、1898年に大量生産を開始、1903年にエトカーは特許を取得しました。


投稿日時:2010/11/30 (火) カテゴリー:Rie Report

ミムナー

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ①

ペサハが終わった夜、イスラエルの各地ではミムナーというお祭りが行われます。ミムナーとはモロッコ系を中心とした北アフリカ系ユダヤ人の風習で、トーラーに基づいたユダヤ教正規の祝祭ではありません。この夜は様々なスイーツを用意して、ドアを開け放して友人や近隣の人々を招きます。特に、「モフレタ」という、ペサハが明けて初めて酵母を入れて焼く薄いパンケーキ状のものに、蜂蜜とバターをつけて食べるのが特徴です。

ペサハ期間になると、ユダヤ人は家庭で食事をすることが多くなるため、隣人との行き来が、通常よりも少なくなります。ミムナーは、このしばらくの間の不在のお詫を込めた、ご近所づきあいの復活の儀式のようなものなのです。また、ペサハ期間は、ユダヤ人はハメツを所持できませんが、イスラーム世界では、周辺のムスリムに預けたり売ったりする習慣がありました。ペサハが明けると、そのようなハメツを返しに訪れるムスリムを歓待する意味もあったのです。

現在では、イスラエル社会で広く受け入れられている風習ですが、基本的にミムナーは、モロッコ系の人々がホストになって行われます。宗教を問わず誰に対してもドアを開けているといいますが、イスラエルではムスリムとは生活圏が分かれているため、むしろ移民社会にあって、ユダヤ人同士のための新しい友好のお祭りのようになっています。

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ②

この習慣の起源は定かではありませんが、古くは中世に始まったとされます。「ミムナー」という言葉の語源には、いくつかの説明があります。ヘブライ語で「信仰」を意味するエムナーEmnah[1] 、ヘブライ語で「お金」を意味するマモンMammon[2] 、他にも、悪魔マイモンMimoun[3] の妻マイムーナMimounaから来ているとも言われます。しかし、最もポピュラーなのは、中世の偉大なラビ、マイモニデス[4](1135‐1204) の父親に由来するという説です。

マイモニデスはヘブライ語でモーゼス・ベン・マイモンMoses ben Maimon、つまり「マイモンの息子」を意味します。このマイモンの誕生日または命日が、ミムナーの日であるというのです。マイモニデスは、イベリア半島のコルドバで生まれましたが、ムワッヒド朝の非ムスリムに対する迫害を避けるため、一家はモロッコのフェスに逃れたのです。マイモニデスは、その後、パレスチナを経てエジプトのフスタート[5] に定住し、侍医としてアイユーブ朝のサラディン(1137/8-1193)に仕えました。

もっとも、これらの説明はすべて俗説で、確かなものではありません。しかし、中世まで遡るといわれるように、ミムナーの風習は、モロッコ系ユダヤ人の生活に深く根づいた伝統なのです。

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ③

このミムナーの祭りは、ペサハがそうであるように、春の祭りでもあります。新しい農耕の始まりであり、ミムナーのテーブルには春の象徴として緑や麦の穂を置きます。ミムナーに様々なスイーツを揃えるもの、甘いものは、フェスでは春の象徴だからだそうです。

ペサハ明けの夜には家に隣人を招きますが、翌日にはピクニックへ行きます。モロッコでは、都市郊外のムスリムの私有地を使うときには、彼らにプレゼントを贈ったそうです [6]。現在イスラエルでも、翌日にはあちこちの公園で、ピクニックやバーベキューが行われます。ペサハ明けの一日は平日で、公共機関や交通機関は通常通りですが、イスルー・ハグIsru Hag[7] といって三大巡礼祭が終わった翌日も、日常回帰のための猶予期間として、一日余分の祭日があるため、多くの人々が家族連れで、公園でバーベキューを行う様子が見られます。

春の訪れを楽しむペサハの時期は、ダティームもヒロニームも公園やキャンプ場、高原等で、バーベキューを楽しみます。アシュケナジー系のダティームは、基本的に前日夜のミムナーの訪問には参加しませんが、イスルー・ハグの日のバーベキューは家族連れで楽しみます。テルアビブやエルサレムの公園でミムナーのバーベキューを行う人々は、ダティームが多く見られます。また、テルアビブのハヤルコン公園 [8]では、ユダヤ人だけでなく、アラブ・ムスリムの家族も春の休日を楽しむ姿が見られます。

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ④

しかし、ミムナーがイスラエル社会で受け入れられるまでには、長い時間がかかりました。モロッコ系ユダヤ人のイスラエル移住は、建国後の1950年代から始まり60年代にピークに達し、セファルディー系最大の移民集団となります。アシュケナジーム支配の社会において、70年代の政治的・宗教的運動を経て、セファルディームの社会的地位が向上したのはこれまで述べてきた通りですが、文化的復興の象徴として語られるのが、このミムナーの祭りなのです。

モロッコ系をはじめとした北アフリカの人々がイスラエルに移住してきた当初、エレツ・イスラエルでミムナーを行う者はあまりいませんでした。アシュケナジームの眼には、ミムナーはユダヤ教本来の祝祭ではなく、土俗的で奇異な習慣として映ったため、北アフリカ出身のセファルディームたちは自らの伝統を表明できなかったのです。しかし、セファルディームの社会的地位向上に伴い、アシュケナジームに対する文化的劣等感も払拭されていき、セファルディック・アイデンティティーの復興の象徴となりました。ミムナーは、もちろん北アフリカの習慣から生まれた伝統ですが、現在進行形で、イスラエル社会の新しい伝統として、毎年規模を拡大しながら、イスラエル人自身の手でつくられていっているのです。


[1]メシアによる救済と出エジプト記と関連があると言われます。

[2]新しい一年の富を願うためと言われます。

[3]作者不明の魔術書『ソロモンの鍵Claviculae Salomonis』にその名が見られます。この書は様々な版や翻訳が存在していますが、Yigal Bin-Nun(Universite Paris VIII)によれば、おそらく15世紀以前にスペインで書かれた版には、「西方の暗黒のマイモン」と呼ばれており、「西方」とは北アフリカ、特にモロッコを指すと言います(Haaretz, 2007. 4.8)。

[4]中世の最も偉大なラビの一人で、ユダヤ律法学者であり哲学者。ミシュナー・トーラーを編纂。

[5]旧カイロと呼ばれるカイロ近郊の都市で、中世以来イスラーム世界におけるユダヤ共同体の中心地の一つでした。1899年にこの都市のシナゴーグから、9‐15世紀までの中世ユダヤ教徒に関する資料群「ゲニザ文書」が発見されました。この発見により、その後S.D.Goiteinによる中世地中海世界にけるユダヤ研究の礎が築かれることとなったのです。

[6]Claudia Roden, 1996: The Book of Jewish Food; An Odyssey from Samarkand and Vilna to the Present Day, Penguin Book, p.476

[7]三大巡礼祭(ペサハ・シャヴオート・スッコート)の祝祭期間後の一日で、日常への回帰の猶予期間として食規定等を守る余分の祭日のことを言います。

[8]テルアビブ市街北部に広がる大きな公園。緑の多い市民憩いの場です。


投稿日時:2010/7/7 (水) カテゴリー:Rie Report


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