イスラエル・ユダヤ食文化

セファルディームのペサハケーキ

セファルディームのペサハケーキ① 禁忌が生んだ美食の伝統

ペサハケーキとは、ペサハ期間にハメツ(酵母)を禁じられたユダヤ人が、小麦粉を使用しないでつくるお菓子やケーキのことで、セファルディーム世界で広く発展しました。ハメツの禁忌により、ペサハ期間はパンやお菓子に小麦粉以外の穀物粉が使われます。代表的な代替粉はジャガイモやトウモロコシですが、これらは新大陸からもたらされた新しい食材です。16-18世紀のヨーロッパの人口増加による食料事情の改善策を支えたジャガイモとトウモロコシは、その伝播に当たって異なる道を辿りました。トウモロコシはスペインを経由し16世紀を通して地中海沿岸地域に、ジャガイモは18世紀を通してフランス、ドイツ、ロシア等のヨーロッパ北・東部へと広まっていきました。つまり、大雑把な分類ではありますが、この二つの植物の伝播状況は、食文化において、アシュケナジーム世界とセファルディーム世界を分ける一つの指針と言えるでしょう。

また、ペサハのお菓子には米粉を使ったものも多く見られます。地中海世界では米粉や米そのものは、日常的にお菓子に使われます。たとえばギリシャのマレビMalebi[i]というお菓子は、米粉とミルクを混ぜたプディングのようなもので、コーンミールを使ったりもしますが、セファルディームの伝えたものだという説があります[ii]。スペインでは、アロス・コン・レチェarroz con leche というお米をミルクと砂糖で甘く煮たドルチェがありますが、お米とミルクというのは、地中海世界では広く受け入れられた組み合わせのようです。20世紀前半のボヘミア・モラヴィアのユダヤ人の家庭のレシピにも、お米とミルク、さまざまな果物類を固めたお菓子が見られ[iii]、アシュケナジーム世界にもセファルディームの食文化が伝わっていることがうかがわれます。しかしその一方で、セファルディームの中でもモロッコ系の人々はペサハ期間にはお米を食べない習慣があるので、食習慣の伝統には、なかなか不思議で複雑なものがあります。1492年にスペインから追放されたユダヤ人は、オランダ以外にも地中海沿岸のイスラーム支配地域へと散っていきましたが、その移住先であるトルコ、ギリシャ、北アフリカには、マレビのように、ラディーノ語[iv]のお菓子の名前が伝えられているそうです。スペインでは、ユダヤ人追放以後もコンベルソ[v]によって、各家庭で密かに、ユダヤ暦の祝祭と結びついたユダヤのお菓子の伝統が守られてきたようですが、残念ながらそれらのユダヤのお菓子のレシピの多くは失われてしまったようです[vi]。

セファルディームのペサハケーキ② 禁忌が生んだ美食の伝統

地中海世界では、木の実や果物は日々の食卓に欠かせない重要な食材で、古代からの長い栽培の歴史があります。現在日本に輸入される多くの木の実類は、アメリカ産や中国産のものが多いのですが、地中海沿岸地域では、古くから様々な木の実が栽培されてきており、現在でも高い生産量を誇るものも少なくありません。たとえば、アーモンドは現在アメリカ・カリフォルニア州が世界最大の生産国・輸出国で、スペインはつづく世界第2位です。カリフォルニアへアーモンドを伝えたのはスペインの宣教師であり、また日本に最初にアーモンドをもたらしたのも、ポルトガルの宣教師たちだと言われています。アーモンドの原産地は中央・西アジアで、遊牧民によりメソポタミアへ、またアレクサンダー大王の遠征によりさらに西のギリシャ・ローマへともたらされ、地中海沿岸に根付いていきました。また、ヘーゼルナッツもトルコ北部黒海沿岸地方が原産地とされ、それが地中海各地へと広まっていきました。現在ヘーゼルナッツの生産量世界第1位はトルコ、イタリアは世界第2位、スペインは世界第4位のヘーゼルナッツの生産・輸出国となっています。地中海沿岸地域はその温暖な気候のために、さまざまな種類の木の実類の生息・栽培に適していたのであり、この豊な木の実の恵みを使した様々なお菓子や料理がつくられてきたのでしょう。

地中海沿岸地域では、たとえばくるみやピスタチオ等のナッツ類をシロップで煮詰めたお菓子の様々なバリエーションが見られます。ヌガーはイタリア・スペインのみならず、イスラーム世界でも日常的なお菓子です。フランス・イタリア・スペイン等の地中海沿岸の南欧諸国とイスラーム世界のお菓子には共通するものが多いのですが、アーモンド粉を使うマカロンもその一つです。モロッコではペサハやプリムにマカロンが食べられており、トルコやイラン、イラクのマカロンにはカルダモンやローズウォーターが入れることもあります[vii]。また、イタリアのアマレッティはマカロンの原型と言われていますが、ローマのゲットーにあるユダヤ人のパスティチェリアでも、代々伝統的なアマレッティやマカロンがつくられているそうです。一方デンマークでは、セファルディック・ディアスポラ以降、古くからセファルディームのコミュニティがありましたが、19世紀以降、ドイツ系中流階層やロシア・ポーランド系貧困層のアシュケナジーム移民コミュニティと共存・融合していきました。ドイツ系の家庭のマツァ粉をつかったアップルパイの上に、マカロンをのせる伝統のお菓子があるそう[viii]で、ナッツ類の粉を使ったお菓子の広がりと人気から、食文化の面でも融合が見られます。

セファルディームのペサハケーキ③ 禁忌が生んだ美食の伝統

ペサハケーキに欠かせないものに、オレンジやレモン等の柑橘類が挙げられます。特にシトロンは、ローマ時代よりユダヤのシンボルとして、コインやシナゴーグ、墓碑、儀式用の銀器等の装飾に使用されてきました[ix]。ヘブライ語ではエトローグといい、ペサハとともに三大巡礼祭の一つに数えられる秋の収穫祭であるスッコートでは、新年初めての豊作祈願の雨乞いの儀式に使われる四大植物の一つ[x]で、風味と香りがあり、学識と善行の持ち主を表すとも言われています[xi]。

イベリア半島に果樹栽培を根付かせたのはムスリムです。961年に書かれた『コルドバ歳時記』[xii]や、11世紀後半-12世紀前半のセヴィーリャの農学者アブー・ル・ジャイルによる農業書[xiii]等の中には、レモン、シトロン、イチヂク、ナツメヤシ、ピスタチオ、バナナ等、豊かな果物の名前と、季節による農耕と食生活のサイクルが書かれています。ユダヤ人は中世初期からシチリアで、そして12世紀にはノルマン・シチリア王国のルッジェーロ2世(1095-1154年)の命によってコルフ島でも柑橘類の栽培を始めました。これらのスペイン・イタリアの柑橘類には地中海の輸出品の一つであり、ユダヤ人によってロンドンや後にはアムステルダムにまで運ばれたのです[xiv]。

これらの柑橘類からはジャムやシロップがつくられました。アシュケナジーム世界でもヘーゼルナッツやくるみ等の木の実を使ったペサハケーキはありますが、柑橘類と組み合わる等、バラエティに富んだレシピは、これらの木の実や果樹の栽培の歴史とともにあります。エトローグのように神への供物にするため、農耕や果樹栽培はユダヤ人にとっては律法による義務であり、古代ユダヤ・コミュニティの分布と果樹栽培地の分布の一致に関する研究もあります[xv]。北アフリカ地域で生まれたペサハ明けを祝う祭りであるミムナーで、野菜や果物のさまざまな種類のコンフィチュールがつくられるのは、このような農耕サイクルに根ざした食習慣から来るものです。前述の『コルドバ歳時記』は、東方イスラーム世界で書かれたアンワーの書[xvi]と異なり、エジプトのコプト暦の影響が認められており[xvii]、農耕サイクルと結びついた中世からの食の伝統が、今も地中海沿岸地域に伝えられていることが分かります。

セファルディームのペサハケーキ④ 禁忌が生んだ美食の伝統

これらの木の実に加え、今やお菓子づくりに欠かせないのがカカオです。カカオは中南米原産で、コロンブスによってスペインにもたらされたと言われていますが、カカオは、最初はその高い栄養価から滋養強壮薬の一種としてスペイン宮廷や修道院に定着しました。その後フェリペ3世(1578-1621年)の娘アナが仏王ルイ13世(1601-1643年)に嫁いだときに、フランスの宮廷へと広まったとされます[xviii]。しかし、カカオはそれだけではお菓子にはなりません。砂糖が必要です。ポルトガルはブラジルにサトウキビを移植しプランテーションを開始、1530年代には砂糖産業が本格化しました。1550年代以降になるとヨーロッパ市場にブラジルの砂糖が進出してきますが[xix]、この新大陸との砂糖貿易で活躍したのはオランダへ逃れたユダヤ人たちでした。1620年代にはアムステルダムの砂糖精練所の数は20を超え、イングランド、フランス、バルト諸国に輸出されていましたが、このブラジルの砂糖の二分の一以上をユダヤ商人が握っていたと言われます[xx]。

その後1828年に、オランダのバンホーテンによりカカオマスから油脂を除去してココア粉を生成する方法が生み出されココアは一般大衆の飲み物となりました。この発明はその後のカカオ産業の発展の礎となり、チョコレートの四大革命[xxi]の最初の一つとされています。ココア粉やチョコレートはさまざまなお菓子に使用され、もちろんペサハケーキにも利用されるようになりました。それだけでなく、最近はマツァにチョコレートをコーティングしたチョコレート・マツァが市販され人気を博しているのです。チョコレートやココア粉は、今やペサハの食卓に欠かせないものとなっています。

セファルディームのペサハケーキ⑤ 禁忌が生んだ美食の伝統

もちろん、これらのお菓子のすべてがペサハケーキではありませんし、様々な木の実や果物、穀物粉を使ったお菓子の発展をセファルディームだけに帰すことはできません。ユダヤ人たちは、その土地で育まれた食材をカシュルートに則り調理してきましたが、レシピの増加は使用できる食材の増加や生活水準の向上に伴うものです。樹木や穀物の生育は風土と環境に左右されるため、食材の数と生産量の増加に農業技術の発展は欠かせません。また、産業革命を経た保存方法と調味料の開発と発展により、より多くの食材を使用することができるようになったことも重要です。ペサハではもちろんハメツは禁じられていますが、ベーキングパウダー[xxii]は炭酸ガスを発生させる重曹を基剤とした膨張剤で酵母(イースト菌)ではないため、ペサハでも使用することができます。このため、酵母が使用できなくても、ケーキを膨らませることができるようになったのです。

ペサハにハメツが禁じられるのは「出エジプト記」の記述に基づきますが、その禁忌に抵触しない限りにおいて許される範囲で食を楽しもうという発想は、祖先の苦難を忘れないためという本来の意義とは全く逆のものです。ユダヤ律法とは、領土と国家機構に裏付けられない不安定なディアスポラの共同体にとっては、ユダヤの宗教的・民族的アイデンティティの拠り所でありました。しかし、その律法の禁忌に縛られた状態でも、限られた範囲で、少しでも祝祭という日常生活から離れた「ハレの日の食卓」を豊かにしようという気持ちは人間として当然であり、自然の恵みと農耕における努力、そして人々の創意工夫の結晶であるペサハケーキは、地中海世界の人間の生活の歴史の一端です。これらのレシピはまた、母から娘へと受け継がれ、離散を重ねる家族のルーツを伝える証しでもあったのです。


[i] ローズウォーターやチョコレート等のバリエーションがあるようです。

[ii] Manuel martínez llopis, La dulcería española; Recetarios histórico y popular, Alianza Editorial, Mdrid, 1999, pp. 24-25.

[iii] In Memory’s Kitchen: A Legacy from the Women of Terezín, Ed. Cara de Silva, Trans. By Bianca Steiner Brown, Rowman& Littlefield Publishers, Inc., 2006, p.46

[iv] セファルディームの言語。ヘブライ語表記で文法はスペイン語に近いが、ポルトガル語やフランス語、トルコ語等、セファルディームの移住先の単語も多く入っています。

[v] キリスト教へ改宗したユダヤ人。元からのキリスト教徒と区別して新キリスト教徒とも言われます。

[vi] Manuel martínez llopis, p.25

[vii] Claudia Roden, The Book of Jewish Food: An Odyssey from Samarkand and Vilna to the Present Day, Penguin Books, 1996, p.522

[viii] Ibid. p. 161

[ix] Ibid. p. 514

[x] スッコートはユダヤ暦の新年に当たるロシュ・ハシャナーと同じティシュリの月(西暦の9-10月に当たる)に行われます。他の三つの植物は、シュロ、柳、ギンバイカです。

[xi] Michael Strassfeld, The Jewish Holidays, Harper Colins Publishes, 2001, p.131

[xii] 前嶋信次『世界の生活の歴史7 イスラムの蔭に』河出書房新社 1991年 pp.265-314。『コルドバ歳時記』は、エルビラの司教レセムンド(アラビア名ラビー・ビン・ザイド・アル・ウスクフ)の著作に、アリーブ・ブン・サアドというムスリムのアンワーの書をつき合わせ綜合したものと言われています。

[xiii] Abū L’Jayr, Kitāb al-Filāha: Tratado de Agricultura, Introducción, edición, traducción e índices por Julia Maria Carabaza Bravo, Agencia Española de Cooperación Internacional, 1991

[xiv] Roden, p.514.

[xv] Ibid. p.514。Erich Isaac, The Influence of Religion in the Spread of Citrus Fruit (1959).

[xvi] 単数形はナウ。後世に黄道28宿と結び付けられましたが、元来はアラビア固有の天文体系による暦法と言われます(前嶋 pp.267-268)。

[xvii] 前嶋 上掲書 p.274

[xviii] 『チョコレートの本』ティータイム・ブックス編集部編 1998年 p.31

[xix] 渡会好一『ヨーロッパの覇権とユダヤ人』法政大学出版局 2010年 p.165

[xx] 渡会 上掲書 pp.260-261

[xxi] その他の4大革命は、チョコレートの成形方法(食べるチョコレート)の発明(1847年)、コンデンスミルクを入れて甘くしたミルクチョコレートの発明(1876年)、チョコレートの粒子を細かく滑らかにするレファイナーとコンチェという機械の発明(19世紀末)です。

[xxii] 1856年にドイツの化学者エーベン・ノートン・ホースフォートにより研究が始められました。1893年にドイツ人薬剤師ルドルフ・エトカーによってレシピが売り出され、1898年に大量生産を開始、1903年にエトカーは特許を取得しました。


投稿日時:2010/11/30 (火) カテゴリー:Rie Report


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