イスラエル・ユダヤ食文化

ミムナー

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ①

ペサハが終わった夜、イスラエルの各地ではミムナーというお祭りが行われます。ミムナーとはモロッコ系を中心とした北アフリカ系ユダヤ人の風習で、トーラーに基づいたユダヤ教正規の祝祭ではありません。この夜は様々なスイーツを用意して、ドアを開け放して友人や近隣の人々を招きます。特に、「モフレタ」という、ペサハが明けて初めて酵母を入れて焼く薄いパンケーキ状のものに、蜂蜜とバターをつけて食べるのが特徴です。

ペサハ期間になると、ユダヤ人は家庭で食事をすることが多くなるため、隣人との行き来が、通常よりも少なくなります。ミムナーは、このしばらくの間の不在のお詫を込めた、ご近所づきあいの復活の儀式のようなものなのです。また、ペサハ期間は、ユダヤ人はハメツを所持できませんが、イスラーム世界では、周辺のムスリムに預けたり売ったりする習慣がありました。ペサハが明けると、そのようなハメツを返しに訪れるムスリムを歓待する意味もあったのです。

現在では、イスラエル社会で広く受け入れられている風習ですが、基本的にミムナーは、モロッコ系の人々がホストになって行われます。宗教を問わず誰に対してもドアを開けているといいますが、イスラエルではムスリムとは生活圏が分かれているため、むしろ移民社会にあって、ユダヤ人同士のための新しい友好のお祭りのようになっています。

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ②

この習慣の起源は定かではありませんが、古くは中世に始まったとされます。「ミムナー」という言葉の語源には、いくつかの説明があります。ヘブライ語で「信仰」を意味するエムナーEmnah[1] 、ヘブライ語で「お金」を意味するマモンMammon[2] 、他にも、悪魔マイモンMimoun[3] の妻マイムーナMimounaから来ているとも言われます。しかし、最もポピュラーなのは、中世の偉大なラビ、マイモニデス[4](1135‐1204) の父親に由来するという説です。

マイモニデスはヘブライ語でモーゼス・ベン・マイモンMoses ben Maimon、つまり「マイモンの息子」を意味します。このマイモンの誕生日または命日が、ミムナーの日であるというのです。マイモニデスは、イベリア半島のコルドバで生まれましたが、ムワッヒド朝の非ムスリムに対する迫害を避けるため、一家はモロッコのフェスに逃れたのです。マイモニデスは、その後、パレスチナを経てエジプトのフスタート[5] に定住し、侍医としてアイユーブ朝のサラディン(1137/8-1193)に仕えました。

もっとも、これらの説明はすべて俗説で、確かなものではありません。しかし、中世まで遡るといわれるように、ミムナーの風習は、モロッコ系ユダヤ人の生活に深く根づいた伝統なのです。

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ③

このミムナーの祭りは、ペサハがそうであるように、春の祭りでもあります。新しい農耕の始まりであり、ミムナーのテーブルには春の象徴として緑や麦の穂を置きます。ミムナーに様々なスイーツを揃えるもの、甘いものは、フェスでは春の象徴だからだそうです。

ペサハ明けの夜には家に隣人を招きますが、翌日にはピクニックへ行きます。モロッコでは、都市郊外のムスリムの私有地を使うときには、彼らにプレゼントを贈ったそうです [6]。現在イスラエルでも、翌日にはあちこちの公園で、ピクニックやバーベキューが行われます。ペサハ明けの一日は平日で、公共機関や交通機関は通常通りですが、イスルー・ハグIsru Hag[7] といって三大巡礼祭が終わった翌日も、日常回帰のための猶予期間として、一日余分の祭日があるため、多くの人々が家族連れで、公園でバーベキューを行う様子が見られます。

春の訪れを楽しむペサハの時期は、ダティームもヒロニームも公園やキャンプ場、高原等で、バーベキューを楽しみます。アシュケナジー系のダティームは、基本的に前日夜のミムナーの訪問には参加しませんが、イスルー・ハグの日のバーベキューは家族連れで楽しみます。テルアビブやエルサレムの公園でミムナーのバーベキューを行う人々は、ダティームが多く見られます。また、テルアビブのハヤルコン公園 [8]では、ユダヤ人だけでなく、アラブ・ムスリムの家族も春の休日を楽しむ姿が見られます。

ミムナー-現代イスラエル社会に復活する伝統 ④

しかし、ミムナーがイスラエル社会で受け入れられるまでには、長い時間がかかりました。モロッコ系ユダヤ人のイスラエル移住は、建国後の1950年代から始まり60年代にピークに達し、セファルディー系最大の移民集団となります。アシュケナジーム支配の社会において、70年代の政治的・宗教的運動を経て、セファルディームの社会的地位が向上したのはこれまで述べてきた通りですが、文化的復興の象徴として語られるのが、このミムナーの祭りなのです。

モロッコ系をはじめとした北アフリカの人々がイスラエルに移住してきた当初、エレツ・イスラエルでミムナーを行う者はあまりいませんでした。アシュケナジームの眼には、ミムナーはユダヤ教本来の祝祭ではなく、土俗的で奇異な習慣として映ったため、北アフリカ出身のセファルディームたちは自らの伝統を表明できなかったのです。しかし、セファルディームの社会的地位向上に伴い、アシュケナジームに対する文化的劣等感も払拭されていき、セファルディック・アイデンティティーの復興の象徴となりました。ミムナーは、もちろん北アフリカの習慣から生まれた伝統ですが、現在進行形で、イスラエル社会の新しい伝統として、毎年規模を拡大しながら、イスラエル人自身の手でつくられていっているのです。


[1]メシアによる救済と出エジプト記と関連があると言われます。

[2]新しい一年の富を願うためと言われます。

[3]作者不明の魔術書『ソロモンの鍵Claviculae Salomonis』にその名が見られます。この書は様々な版や翻訳が存在していますが、Yigal Bin-Nun(Universite Paris VIII)によれば、おそらく15世紀以前にスペインで書かれた版には、「西方の暗黒のマイモン」と呼ばれており、「西方」とは北アフリカ、特にモロッコを指すと言います(Haaretz, 2007. 4.8)。

[4]中世の最も偉大なラビの一人で、ユダヤ律法学者であり哲学者。ミシュナー・トーラーを編纂。

[5]旧カイロと呼ばれるカイロ近郊の都市で、中世以来イスラーム世界におけるユダヤ共同体の中心地の一つでした。1899年にこの都市のシナゴーグから、9‐15世紀までの中世ユダヤ教徒に関する資料群「ゲニザ文書」が発見されました。この発見により、その後S.D.Goiteinによる中世地中海世界にけるユダヤ研究の礎が築かれることとなったのです。

[6]Claudia Roden, 1996: The Book of Jewish Food; An Odyssey from Samarkand and Vilna to the Present Day, Penguin Book, p.476

[7]三大巡礼祭(ペサハ・シャヴオート・スッコート)の祝祭期間後の一日で、日常への回帰の猶予期間として食規定等を守る余分の祭日のことを言います。

[8]テルアビブ市街北部に広がる大きな公園。緑の多い市民憩いの場です。


投稿日時:2010/7/7 (水) カテゴリー:Rie Report


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