イスラエル・ユダヤ食文化

モザイクの食文化

モザイクの食文化 移民とユダヤ料理①

現在イスラエルでは、世界各地の料理が見られますが、それらは19世紀後半から始まる移民がもたらしたものです。特に1948年のイスラエルの建国以来、世界中に散っていたディアスポラのユダヤ人がエレツ・イスラエル(イスラエルの地)に帰還してきました。移民と共に、多様なバックグラウンドを持つ食文化が中東にある一つの国家へと集まってきたのであり、現在イスラエルの街角では中東のファラフェル[1]ショップとともに、欧米のファスト・フードやカフェが並んで見られます。

食文化は大きく分けて、①動植物の生息あるいは生育、植生と気候風土という自然環境、②社会的文脈に基づいた宗教的・道徳的禁忌によって規定されるといえます。ユダヤ的文脈において重視されるのは当然②ですが、エレツ・イスラエルにおける食文化とは、多様な気候風土で育った料理を、ある特定の地域で新たに再構築するものです。それは同時に、イスラエル社会における食における文化的アイデンティティの反映であり、ユダヤ・イスラエル食文化の新たな始まりでもあったのです。

モザイクの食文化 移民とユダヤ料理②

1890年代以降イスラエル建国に至るまで多かったのは、ドイツ・ロシア・東欧を中心としたヨーロッパ系ユダヤ人であるアシュケナジームの移民です。ヨーロッパからやってきた彼らは、現代のイスラエル国家と聖書時代とのつながりを探そうとしました[2]。

つまり、遺跡を発掘し、聖書に記述された動植物を「発見」することで、居住地と民族アイデンティティの一致を図ったのです。食の面でいえば、たとえばガリラヤ湖周辺で獲れる淡水魚セント・ピーターズ・フィッシュの揚げ物はイスラエルの名物料理の一つですが、この名は聖ペテロに因んだものです[3]。

しかし、およそ1900年に渡るディアスポラの空隙を埋めようとするこのような「一つの」ユダヤ・イスラエル民族・国家・文化構築の試みは、古代と現代を結びつける帝国主義的民族史観の再生ともいうべきものでした。

世界各地からの移民の増加とイスラエルの社会的・文化的発展に伴い「発見」されたのは、むしろ統一された国民アイデンティティの創生の不可能性であり、統一ではなく多様化していくイスラエル社会における文化的アイデンティティは、ユダヤ料理のあり方にも反映されていくのです。

モザイクの食文化 移民とユダヤ料理③
アシュケナジーム以外にも、19世紀末から建国当初まではイエメンやイラク、そして1960年代以降モロッコを中心とした北アフリカといったイスラーム世界から大量の移民が流れ込みました。

しかし、イスラエル国家は事実上アシュケナジームによって支配されており、オリエント系移民の多くは2級市民的扱いを受け、経済的苦境に置かれ貧困層を形成することになったのである。またその文化は欧米出身のアシュケナジームのものに比べ、劣ったものと見られていました。

このような同じユダヤ人を差別する「オリエンタリズム的」な不平等性は大きな社会問題となり、ブラック・パンサー運動[4]やシャス運動[5]のような、オリエント・セファルディー系ユダヤ人の政治的・宗教的社会運動となり、イスラエルに大きな社会変動を促すこととなりました。

このような流れに沿ってセファルディームの文化的アイデンティティも再構築へと向かったのです。その過程で、食の分野でも「セファルディック・キュイジーヌ」という言葉が生まれ、やがて文学や音楽と同じように、セファルディームの食文化も新たに着目されるようになっていきました。

モザイクの食文化 移民とユダヤ料理④
もっとも、この「セファルディック・キュイジーヌ」という言葉の定義は曖昧です。

いわゆる「ヨーロッパ対オリエント」という二項対立的な意味において、食という分野における「アシュケナジームのヨーロッパ文化」へのカウンターパート的に使われていますが、それでも「セファルディーム」というアイデンティティに一つの見解を与えてくれます[6]。

16世紀末のイベリア半島追放以降ヨーロッパ・中南米に渡ったセファルディームと、地中海世界へ散ったセファルディームの伝統料理の違いは、その移住先の風土に因るところが大きいのです。

たとえば、スペイン・ポルトガルからの移民が多かったオランダのユダヤ料理はアシュケナジーム的であり、また中南米のセファルディーム社会の食文化にも、そのつながりは見られません。

スペイン・ポルトガルのセファルディームの食文化の伝統は、同じ地中海という環境を持ったイタリアやイスラーム世界の北アフリカや中東・トルコのユダヤ・コミュニティに受け継がれていったのです[7]。このような歴史的な移民の流れを背景として、移民国家イスラエル社会における「モザイクの食文化[8]」が生まれました。

それは、1990年代のソヴィエト連邦崩壊以後のロシアからの大量の移民流入によってさらに加速されていき、現在イスラエルでは、エチオピア等のアフリカ系移民も増大し、より多様で複雑な食のあり方が見られます。


[1] ヒヨコマメ、またはソラマメからつくったコロッケのような中東の食べ物。

[2] Claudia Roden, 1996: The Book of Jewish Food; An Odyssey from Samarkand and Vilna to the Present Day, Penguin Book, p.21

[3] 『マタイによる福音書』17章24-27節。

[4] モロッコ系を中心にオリエント系移民の第2世代によって1971年に組織された、アシュケナジームによる政治・社会・経済・文化全般にわたるメルティング・ポット的抑圧と同化に対する抗議運動。1960年代後半~1970年代に米国で展開された、急進的な黒人民族運動に因みます。このような流れを受けた1977年の第9回クネセト選挙は、建国以来第1党であった労働党が敗北したことにより一党独裁の時代が終わりを告げた、イスラエル政治史上の「大激震」とよばれます。

[5] ラビ・オバディア・ヨセフを中心としたオリエント・セファルディーム系の超正統派による、1970年代から始まる社会福祉・宗教教育運動。貧困層の強力な支持を受け、1984年政党を結成、同年の総選挙で初の議席を獲得しました。党の正式名称は「トーラーを遵法するスファラディー連盟」。

[6] 「セファルディーム」とは、ヘブライ語でスペイン(イベリア半島)を意味する「スファラド」に由来しますが、その言葉の定義は曖昧です。スペイン・ポルトガル系ユダヤ人以外にも、イスラーム世界に定住していたユダヤ教徒全般を指す場合もありますが、現在ではアジア・アフリカ系ユダヤ人の中には、「ミズラヒーム」(「ミズラヒ」はヘブライ語で東方を意味する)という言葉を使うことも多いのです。

[7] Claudia Roden, p.16

[8] 『イスラエルにおいて、オリエント系とセファルディー系の知識階層が出現した結果、マルチカルチュアリズムの類の概念が発展し、イスラエル人はイスラエルにおけるユダヤ人と他の人々が多くの言語と文化のあり方を持っていることに気付いた。メルティング・ポットの概念は終わった。今我々は、各々の料理が異なる特色を持ち、それを固持できる国家の枠組みの内における、モザイクのようなイスラエルの食文化を思い描く』。1970年代のヘブライ大学民俗学教授Dov Noyの言葉。Joan Nathan、2001:The Food of Israel Today,  Alfred A Knopf, New York, p.9より引用。


投稿日時:2010/2/25 (木) カテゴリー:Rie Report


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